法学部について

大学生活
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法学を学び始めて

 私は,某大学の法学部の2年生です。軽く自己紹介しておくと,一応そこそこのレベルの大学の法学部に現役合格しました。1年生の頃から専門教育が始まり,2年生になりそれが本格化しました。ここまでの法学教育などを受けてきて私が思っていることの変化などを記しておこうと思います。

 法学部と聞いて何を思われるでしょうか。私が法学部を志した理由等から始めましょうか。

 私が最初に法学部を志したのは,中学生の頃です。私は,中学生の頃に「踊る大捜査線」にはまりました。私は,1999年生まれですから,随分前の作品にはまったことになります。ここで私は,もう一人の主人公である室井慎次に憧憬の念を抱きました。あまり知らない人のために補足しておきますと,彼は東北大学法学部を卒業した後,国家公務員一種試験(現在の国家公務員総合職試験)に合格し,警察庁に入庁したキャリア官僚です。彼の信念は,キャリアとノンキャリア,本庁と所轄の対立(実際にこうした対立が現場にあるかについては,私は詳しく知りません)を融和し,ノンキャリア,所轄の捜査員が「正義」を貫けるようにすることでした。そのために,上司とも対立しながら奮闘するのでした。その姿に私は前述の念を抱きました。

 なんとも動機がありきたりなものですが,その後「隠蔽捜査」という今野敏原作のテレビドラマを見て(勿論原作も拝読しました),キャリア官僚を目指そうと思いました。そのために私は高校受験の際,私の出身の岐阜県の最高難易度の高校を目指しました。しかし,そこを受験することは叶わず,私はそこから1ランクか2ランクほど学力的には劣位の高校に進学しました。

 ここで私は,自分の進路について考えたのです。医師,数学者,公務員などといろいろ考えました。私は,中学校の頃は数学がかなり苦手でありまして,唯一といってもよいかもしれません,それゆえ数学に対する抵抗がありまして,文系を文理選択の際に選択致しました(この選択が今一つだと今は思うのですが)。そして文系を選択した後,どこの学部に進学するのか考えたわけであります。経済学部や国際関係学部,法学部が候補にあがりました。どれも何かの職業になりたいというわけではありませんでした。この関係のことを勉強してみたいという学問的興味で選んだのであります。その中で一番潰しが効くということもあり,法学部を選択しました。

 この時点では,中学生の頃に思い描いた県下一の進学校→東京大学文科一類→東京大学法学部ということも思い描いていましたが,結局その進路は実現することはできず,今の大学に落ち着いたわけであります。

 法学部ということを聞いて,どうも一般の人は六法全書を丸暗記するということを思い浮かべるようですが,それは全く違うといってよいでしょう。当然法学部では,法律を勉強する過程で,六法は使用します。しかし,それはあくまで道具にすぎません。覚えることは,むしろ六法には書いていないことです。六法に書いていないことが法律なのかという疑問を持つ人がいるかもしれませんが,それはあるのです。例えば,立法者が想定していない事態が社会現象として発生した場合,それは六法には書いていません。そのほかにも,六法の言葉が実際の運用には,大雑把すぎる場合,規則や学説等で補うのです。実際に具体例を見てみるのがわかりやすいと思うので,具体例をいくつか提示しましょう。

Ex1)

刑法235条 他人の財物を窃取した者は,窃盗の罪とし,十年以下の懲役または五十万円以下の罰金に処す。

有名な窃盗罪の規定です。正直に言うと,これくらい有名(何が有名なのかと思われるかもしれませんが)な条文だと,大抵の法学履修者は条文の数は暗記していると思います。刑法でいくと,殺人罪(199条)とか尊属殺人(200条,最高裁で違憲判決が出て,現在は削除)などです。本題に戻りましょう。この条文を見るだけでは,何が新たに考える必要があるかわからないかもしれません。考えなければいけないのは,「財物」という表現です。例えば,皆さんの感覚として,「他人の財布を盗った」これは,窃盗罪に該当するという感覚を持つでしょう。では,「他人の蛇口から水を飲んだ」これは,窃盗罪に該当するでしょうか。なかなかこういわれると難しいのではないでしょうか。これについての学説の対立があります。それは,有体物説と管理可能説です。通説は,有体物説です。有体物説は,簡単に言うと,財物は物,固形物でなくてはいけないという学説です。管理可能説は,大雑把に言うと,管理できれば固形物でなくてもよいという説です。余談になりますが,ここで勘のいい人は気づくでしょう。「『電気窃盗』って犯罪じゃなかったっけ?」と。その通りです。そしてもちろん,電気は有体物説をとると一般に財物の定義から外れると解されます。では,なぜ電気窃盗罪が成立するかというと,窃盗罪が規定されている刑法36章窃盗及び強盗の罪という章の最後の条文である245条に以下の規定があるからです。

刑法245条 この章の罪については,電気は,財物とみなす。

つまり,電気は有体物ではないけれど,例外的に電気も財物としますと規定しているわけです。だから,電気窃盗罪が成立するわけです。むしろ,この245条があるから,有体物説が通説になっているわけです(もし管理可能説を採るなら,この条文は不要ですからね。有体物説の例外として設置したと考えるのが自然でしょう)。そして気づきかもしれませんが,刑法第36章は「窃盗及び強盗の罪」です。この章に書かれた財物という言葉に電気を含むわけです。第36章には,強盗罪(236条),強盗予備罪(237条),事後強盗罪(238条),昏睡強盗罪(239条),強盗致死傷(240条)などと強盗罪関連の罪名が列挙されています。つまり,これらの罪名の対象物として電気は含まれるわけです。例えば,窃盗しようとした場合,その財物の所有者に見つかり,その人物に対し危害を加えた場合は,強盗罪乃至事後強盗罪が成立します。つまり,もし所有者の制止を振り払い,強引にスマホを充電した場合は,これらの罪に問われる可能性があるということです。くれぐれもお気を付けください。

Ex2)

日本は,議院内閣制を採用していると一般に評価されますよね。しかし,日本国憲法を見ても,一切「議院内閣制」という単語は出てきません。では,何を以って日本は議院内閣制を採用していると評価しているかというと,憲法43条,44条,66条,67条,69条,70条の規定を見て,議院内閣制の要素を満たしていると判断されるがゆえに,日本は議院内閣制国家であると評価するのです。

憲法43条第1項 両議院は,全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。

憲法44条 両議院の議員及びその選挙人の資格は,法律でこれを定める。但し,人種,信条,性別,社会的身分,門地,教育,財産又は収入によつて差別してはならない。

このようにみると,決して法律の条文だけでは十分ではないとお分かりいただけるのではないでしょうか。そして,そのような箇所については学説の対立等があります。これを覚えるわけです。条文の数や条文の趣旨は覚えていません。正確さを期するのであれば,よく使うものや有名なものについては自然と覚えてしまいますが,覚えようとは思っていません。また,司法試験受験者は短答試験と口述試験は六法の持ち込みは不可ですから,彼らは覚えているのかと思うかもしれませんが,確かに大学の研究者や一般の法学部の学生よりは条文の趣旨や条数は覚えていると思いますが,それでも丸暗記をしているわけではありません。

 ここまで法学部の勉強を見てきましたが,実はこれが全てではありません。これは,法学部で学習するうちの1つの学習方法です。国公立大学の法学部の場合,法学部で扱う学問は大きく3つに分かれます。まずは,法学と政治学に大別されます。国公立大学は基本的にドイツをモデルとした法学部を設置しているので,法学の中に政治学も組み込まれています(政治学科としてあるかどうかはここでは不問です)。反対に,私立大学はアメリカモデルを採用しているところが多いですので,法学部の中には政治学は組み込まれず,政治学部や政治経済学部として成立していることになります。話を戻します。法学と政治学に大別した後,法学が大きく2つに大別されます。それは法解釈学と法制史学です。つまり,国公立大学の法学部は,政治学,法解釈学,法制史学の3つの学問体系を扱うことになります。そして,前述しました学習方法は法解釈学のものです。ここで,法制史学と法解釈学について説明しておきましょう。いわゆる皆さんが思いつく法律の学習というのは,法解釈学です。六法や行政法,租税法,国際法などという成文法などをどのように運用するかについて学ぶ学問が法解釈学です。一方の法制史学は,どのように法が発展してきたか,各国間で法の違いはどのようなものか,法とは何か,このようなことを扱います。

 私が今まで法学部で学んできて思ったことを述べたいと思います。

 まずは,意外と法律は人々を救済できるということです。法は意外と冷徹な印象を持たれがちです。私も現にそういう印象がありました。上記で述べた通り,私は高校生の時,法律を学んでみたいと思いましたが,この動機は法を学んで自己防衛したいという思いから来るものであったように思います。しかし,意外と法というのは人々の考えに寄り添ったものです。原則と例外を使い分けることによって,理不尽に不利益を被った人に対して救済を行えます。これは,私が一番思ったことです。法はあったかいものです。

 次に思うのは,ただしかし法律は人々を結果として救済できないことが多いということです。一つ前の私見と矛盾して聞こえるかもしれません。しかし,これもまた私が思うことです。確かに,法律の大部分は人々を救済できます。それでも,実際の運用ということになると,なかなか救済できません。これは,私が法律と異なった感覚をしているためかもしれませんが。この理由を私なりに考えてみました。主に以下の4つだと思います。

  1. 大きな問題になる部分がその一部の救済できない部分にかたまってしまう。
  2. 法律は原理原則を定めており,確かに現実に即して作られるように努力されているが,完全に合致するのが難しい(その性質,社会の流れ)
  3. 対立する2つの権利などのバランスをとる必要がある。
  4. 裁判官が保守的,どちらかというと勝ち組の人で構成されやすい
  1. について

忘れてはいけないのは,司法で扱われる,特に訴訟という形態で解決される問題というのは,一般に発生している紛争のごく一部にすぎないということです。我々の紛争というものは,紛争自体を紛争として認識されれば,まずは当事者間の話し合いによる解決を図るのが当然です。ここにもいくつかのレベル,完全に当事者間での話し合い,非専門職である第三者を交えた話し合い,専門職たる第三者を交えた話し合い,代理人を介した話し合い等があることは承知しておりますが,多くのことはここで解決されているはずでありましょう。

その一段上の段階となると,裁判所ではない機関を通した話し合いであります。ADR(非訴訟裁判制度)や行政に関することであれば,行政審査などが考えられます。

次の場面またはこれと同等の場面として想定されるべきは,訴訟ではない裁判手続きによる解決であります。ここで,共通理解として持っていただきたいのは,訴訟と裁判というのは同義ではないということであります。裁判というのは,裁判所が関与するあらゆる行為のことを指します。一般の人が想像する法廷での論争を伴う「裁判」というのは,訴訟という言葉を使うのであります。これを念頭に置いたうえで,訴訟以外の裁判手続きというものを考えることができ,それを利用することが十分に考えられます。訴訟以外の裁判手続きというものの代表例が調停であると思います。昨今,離婚がかなり一般的なものとして認識されるようになり,実際に離婚調停という形で使われているため,これを利用したことがある方はもちろん,一般の方々,つまりこのような過程を経たことがない方々(離婚未経験者や協議離婚で離婚された方々)にとっても聞いたことがある形式であるかと思います。この形式のメリットとしては,訴訟と比べれば馴染みやすい形式であるということが言えるでしょう。また,費用も訴訟ほどかからない。つまり,利用しやすい制度であるということが言えるからであると思われます。

最後の段階が,訴訟であります。訴訟とは,前述した通りの皆さんが「裁判」という単語を聞いた際にイメージするそれであり,紛争解決形態としては最もレベルが高い,最終紛争解決形態といって差し支えないだろうと思います。

このように考えると,まず訴訟という形式で扱われる紛争自体がかなりそれまでの形式では解決が困難であるほど複雑であるということが言えます。そして,まして上訴が行われるような問題というのは,さらに複雑であると考えるのは容易であるのと同時に当然であり,このような問題について裁判所特に上訴裁判所が判断するということが法が中々救済できない理由の一つとして考える理由であります。

  • について

 法律は,原理原則を定めているという認識があるでしょう。それは間違っていないです。特に一般法と評価される法律(六法+行政法など)はかなり抽象的な内容となっています。これにより,現状の変化や事案の内容の幅に対応できるようになっています。そして,これに追加して個別具体的な場合や問題について特別法を定めます。しかし,この特別法の制定は基本的に具体的な問題や弊害が発生してから制定過程に入るものですから,現状と乖離することも十分考えられます。では,一般法での解決について考えても,必ずしもできるとは限りません。なぜなら,我々の範疇を越える現象が発生することは考えられるし,実際にそれが発生している場合もあるからです。これの具体例としては,民法の雇用契約についての説がこれに当たります。確かに,民法第3編第2章第8節には雇用契約についての規定があります。しかし,ここにあることは実務では用いられることが少ないです。なぜなら,労働法の領域がこれの特別法であり,特別法優先の原則があるからです。

 ここで一般法と特別法について説明しておきましょう。法律にはいろいろな分類の仕方がありますが,その1つが特別法と一般法です。一般法というのは内容が抽象的で,社会現象に幅広く適用できるものです。これの例としては,六法や行政法がこれに当たります。これの対義語としては,具体的な問題等について適用される特別法というものがあります。これの例が上で述べた民法の雇用契約の特別法としての労働法(労働基準法,労働契約法,労働関係調整法など)です。これが法律内で発生する場合には,一般規定と特別規定ということになります。ここで何が具体的であるかについて気になる人もいると思いますが,これについては一概には言えません。相対的な場合もあります。それはさておき,一般法と特別法については上記の通り,特別法優先の原則が存在します。考えてみれば当然ですが,原則よりも例外が優先されます。

 これだけはありません。特に民法はかつての原理原則に基づいています。西洋では,中世の絶対王政期を克服するものとして,市民革命がおこりました。特にこれの有名例として挙げられるのは,フランス革命であり,この時に制定されたフランス人権宣言は後世の法律,社会等に大きな影響を与えたというのは周知の事実でしょう。この当初はこの歴史を克服したということから,自由が原則でした。この頃の国家を夜警国家などと呼ばれる。しかし,世界恐慌を迎えるころには,完全な自由競争というが必ずしも良いことではないという評価がなされ,必要な部分については,市場や社会,私人に任せるのではなく,国家が介入して特に社会的弱者の救済や福祉制度の運営を行った方がよいという評価がなされました。それ以降,このような福祉国家の路線をとる国が増えました。我が国もその路線を採用していると評価してよいでしょう。しかし,民法はどちらかというと,自由な選択を国民に任せるとともに,自己責任の原則をとっています。これが我々の現代の社会の原則と必ずしも合致しているかといわれれば,必ずしもそうとは言えないのではないでしょうか。

  • について

 前記2項で述べたように,最高裁判所まで上訴され,かつ法廷で審議されるような事件はかなり複雑であると思う。つまり,両立するのが困難な二つの権利が衝突しているように見える状況を判断すると解すのが相当だろう。例えば,契約自由の原則についての判例として有名な,

  • について

 裁判官になるにはどうすればいいのか。裁判官は,法律運用の専門家である法曹という職種に属する。法曹とは,裁判官,検察官,弁護士の3者のことを指し,これらに共通するのは,全て原則として司法試験に合格すること,またはそれと同等と法律上みなされる資格が必要であるということです。司法試験とは,日本における三大難関試験(司法試験,公認会計士試験,国家公務員総合職試験)の一つに数えられるほどの難関で,司法試験本試験の合格率は20%程度,その受験資格には法科大学院又は予備試験に合格することが要請されますが,この予備試験の合格率は4%とかなりの難関です。このような難関試験に合格する人の多くは,東大京大,早慶,一橋になどの難関大やそれに続く旧帝国大学等の法学部出身者が多いのが現状です。彼らは,言い方を変えれば,この時点で「勝ち組」と称される人々であります。そればかりか,社会的地位の再生産が起こる場合も併せて考えるなら,彼らは「勝ち組」の環境で育ったということになります。まして,彼らはその中でもこの難関である司法試験に合格してしまうような人々であります。このような背景があることを考えると,裁判官全体の一般的にあり得る平均的傾向として,社会的弱者救済ということに関して,積極的ではないということが考えられます。これは,彼らが意識していようがいまいが,です。これが私の考えた理由の1つであります。

 そしてさらに,法を学んで何になるのでしょうか。社会科学というのは,当たり前といわれていることについて取り組んだり,最終的には人の価値観により決定したりするような性質を持つように思われます。つまり,時代や個人等の要因によって最適解が異なる可能性を有するということを意味します。一般に法学も社会科学の一つとして評価することが多いわけですが,このような性格を持つ社会科学,法学を学ぶ意味とはどこにあるのでしょうか。まずは,解を作らなければならないという点です。その解が最適解かどうかを一度置いておいたとして,客観的に,一般的に解と呼ばれるものを作らなければならないのです。なぜならば,人の価値観とは多様であります。私が好きな表現として,TBS系ドラマ「空飛ぶ広報室」で柴田恭兵氏演じる鷺阪広報室長が自衛隊機の騒音に対するクレーム対応に対し言ったセリフが思い出されます。

「正義というのは,見る人の側によって違う。同じものを見ても,こちらから見れば白,向こう側から見れば黒。」

趣旨としては,このようなものであったと思います。つまり,多様化する価値観の中で,その時代の一般と考えられる部分で線引きをしなければ,なんでもありな世の中になってしまい,安全安心かつ公正な社会生活が営まれえないのです。このために,法を学ぶ必要があります。具体的には,先例はどのようなものであったか,外国の法はどのようになっているか,問題解決のための手段・考え方は,どのようにするのか,ということです。

 しかし,法を作る以上できることなら,最適解に近づけようと思うはずです。尤も,この世の中に最適解があるかどうかという問題はあるものの,最適なものに近づけようと思うはずです。その法を最適であるかどうか評価するためには,それに関する多様な知識が必要です。そして,それの糧としては,異国や前世の法史を知る必要があるとともに,結論の導き方の妥当性を考えるうえでは,他学問も学ぶ必要があるのですが,何よりも法の考え方というものが必要となり,このような知識や考え方というのは,簡単なように見えて意外と難しいものです。

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