日本史B 明治憲法下の支配体制 補助レジュメ

勉強

youtube動画URL:https://www.youtube.com/watch?v=SmRA_lcMCIw

これは,こちらの動画の補助レジュメです。

※プロの予備校講師ではない,且つ日本史専攻をしていない学生によるものです。

歴史的解釈等において,通説的理解と異なる場合があります。

明治憲法制定の流れ

1870年代における自由民権運動と明治14年の政変→国会開設の勅諭:1890年に国会開設を公約。これにより民権運動は,選挙戦へ

自由民権運動の4フェーズ

1.士族中心の民権運動(~西南戦争)

:明治6年の政変によって下野した板垣退助や江藤新平等が中心となった。民選議院設立の建白書の提出や大阪会議等はこのフェーズに当たると思われる。主に士族を中心とする武力反乱が中心であった点が特徴である。

Cf)明治6年の政変:未だ徳川幕府を真の日本政府であるとし,明治政府と国交を開こうとしない朝鮮に対する態度を巡る政府内の対立。概ね岩倉使節団vs残留組の構図。岩倉使節団は,欧米列強の国力を目の当たりにして,国力の充実を優先させようという方針に対し,残留組は武士たちの不満を逸らすことも目的に征韓論を唱えた。岩倉使節団側には,大久保利通,桂太郎,伊藤博文等,対して残留組には,西郷隆盛,江藤新平,板垣退助がいた。結果は,岩倉使節団側の方針が採用され,反対した者たちは下野した。

2.豪農中心の民権運動(~松方財政)

:西南戦争後,言論による政府批判が高まった段階。立志社建白や国会期成同盟等がこのタイミングの出来事である。そして,これに対し,政府は周回条例を出す等,弾圧を強化した。開拓使官有物払い下げ事件で民衆の怒りは最高潮に。政府の中心人物であった伊藤博文は,国会の即時解説並びに英国流の議院内閣制の導入を主張する大隈重信を官有物払い下げ事件の責任を取らせるという形で下野させた。そしてすぐ,国会開設の勅諭を発表した。伊藤らの考えである,漸次国会開設,ドイツ流の君主権の強い憲法の導入という方針が固まった。その後は,比較的落ち着いた時期。政党形成や私擬憲法の作成等が行われた時期。

Cf)官有物払い下げ事件:黒田清隆が道教の五代友厚に,開拓使(北海道)の官営事業を安値で売却しようとした問題。民権派の集中砲火を浴びた。

Cf)明治14年の政変:政府の中心人物である伊藤らが,かつてから国会開設時期,憲法の方針により対立した大隈を,官有物払い下げ事件に際して,民権派とのつながりを疑われたため,罷免した事件。大隈は,内閣総理大臣として返り咲く迄,自由民権運動の側,民党の側に回ることになる。

Cf)政党の形成…この時期に形成されたのは,自由党,立憲改進党,立憲帝政党。誰が,どのような立場を採って作ったのか,理解しておいて頂きたい。

Cf)私擬憲法:政府関係者や民権派が作成した憲法案の総称。『私擬憲法案』,『日本憲法見込案』,『東洋大日本国国憲按』,『五日市憲法草案』は抑えておきたいところ。『五日市憲法草案』は,東京郊外の人々が作成したという点で,特徴的であり,民権運動の広がりが見られる。

3.貧農中心の民権運動(激動事件)

:国会開設という統一的目標が達されると,政党作成等に関心が移ると,そこで民権派内での対立が深まった。そこに,1880年からの松方財政により,緊縮財政が採られ,自作農の没落が発生し,一部の地主と小作人という二極化が進行していく。その中で,没落した農民と地方の末端自由党員と協力し,激化事件を起こす。

Cf)松方財政により緊縮財政が採られたが,その前の大隈財政が放漫財政であったため,その反動によるものもあるだろう。

Cf)自作農の没落に伴う二極化によって,工場労働者が確保でき,日本の産業革命が進行したとの評価が為されることが多い。これは,世界史でも同様の状況が起こることが多く,例えば,世界で初めて産業革命を成し遂げたイギリスでは,第2次エンクロージャー(囲い込み政策)により,ジェントリ(郷紳)に土地が集中したことにより,没落した農民が工場労働者として,働くようになったことが,産業革命の発端であると解される。

Cf)激化事件は各地で起きたが,必ず押さえておくべきは,福島事件,加波山事件,秩父事件,大坂事件であろう。そのほか芋,静岡事件,飯田事件,名古屋事件,高田事件,群馬事件等もある。

4.団結期

:激化事件の中で,民権派の再結集を呼び掛ける動きが出来始める。例えば,後藤象二郎,星亨らによる大同団結運動や三大事件建白運動がこれに当たる。

Cf)大同団結運動:「細かい主張の違いはあれど,民権派ということで大きな課題を達成するために,協力すべきである」という運動。

Cf)三大事件建白運動:井上外交における条約改正内容(外国人判事の任用容認等)に対し,民権派は「地租軽減,言論集会の自由,外交失策の回復(対等条約の締結)」を要求することを,スローガンとする運動

Cf)こうした動きに対しては,保安条例を出すなどの弾圧もあった。

Cf)自由民権運動に対する政府の基本方針:勢いのある民権派のトップは,懐柔する一方,それ以外の下っ端は徹底的に弾圧する。なぜなら,民権派のトップは,政変によって下野した等,元々明治維新の際は共に戦った戦友,同僚であるから。

Ex)集会条例改正の代わりに板垣退助をヨーロッパへ外遊させた。ちなみに,その資金が政府系の財閥から出ていたことに対し,民権派からは不満が出た。

Ex)保安条例発布した(処罰者あり,文献必読!)後の,大隈重信と後藤象二郎を入閣させた。

1882年 伊藤博文ら渡欧。グナイスト(ベルリン大学),シュタイン(ウィーン大学)らにドイツ流憲法理論を教わり,翌年帰国。

明治期の法の継受

  • フランス法…民法の作成にかかわったボアソナード等,フランス法の影響も受ける。
  • ドイツ法…憲法作成過程から戦前は,法律の世界ではドイツ法が最も先進的であるとされ,ドイツ法の研究が盛んに行われた・

Cf)アメリカ法…戦後,GHQの占領政策の下,憲法が作られたり,家族法が全面改正されたりする等,強く影響を受ける。

1884年 宮中に制度取調局設置

1885年 第1次伊藤博文内閣発足

cf)内閣・内閣総理大臣は憲法上の地位ではない。なぜなら,憲法→内閣ではなく,内閣→憲法である点で,内閣は憲法によってその権利を与えられるわけではない。また,条文上も規定が無い。但し,国務大臣については,憲法上に規定があり,天皇を輔弼するという役割が与えられていた。国務大臣は,天皇による直接任命であった(つまり,総理大臣は各国務大臣に対する任命責任が無いため,罷免することもできない)。このように見ると,内閣総理大臣というのは,本当に国務大臣の筆頭の程度の立場であった。まさに,「首相」なのであった。また,内閣が憲法上に規定が無いことから,組閣の際に帝国議会の信任を得る必要はなかった。

1886年 井上毅,伊東巳代治,金子堅太郎らと共に,伊藤博文がロエスレル(ドイツ人顧問)の助言を得て,憲法草案の起草を始める。

1888年 枢密院設置。伊藤博文が議長となる。総理大臣は,黒田清隆へ

枢密院:天皇の諮問機関。重要な国事について解答する。

1889年2月11日 大日本帝國憲法発布。

1889年:戦前の統治機構が固まった年。

2月11日:建国記念日

Cf)大日本帝国憲法も日本国憲法も施行は,発布の半年後。

Cf)日本国憲法は,発布1946年11月3日(現:文化の日),施行1947年5月3日(現:憲法記念日)。

衆議院議員選挙法,皇室典範制定

衆議院議員選挙法:民選の衆議院議員選挙についての規定。あの「直接国税15円以上を納付した満25歳以上の男子」という条件はこれに規定されている。

皇室典範:皇室について定めている法律。例えば,皇位継承順等が規定されている。現在は,航海されており,法律としての身分を有する(憲法→法律→命令(政令,省令等)等,法の階層構造)が,戦前は,憲法と同等の地位が与えられており,非公開であった。

元老とは?

明治維新の際に,主に重要な役割を果たした人物で,天皇により元老の位に列せられた者。

明治維新後は,天皇の輔弼を行った。具体的には,天皇の諮問に答えたり,次期内閣総理大臣を選任したりした。

伊藤博文,山縣有朋,黒田清隆,松方正義,桂太郎,西園寺公望,井上馨,大山巌,西郷従道を指す。

彼らは,政治と軍両方に精通していた。

似た言葉として,「元勲」があるが,これは,元老も含めた,維新の功労者を指す。

元老のその後…

大正末期までに西園寺のみを残し,全員がこの世を去る。

とはいえ,西園寺も1940年に没する。

Cf)元老死後は,内大臣(宮中の職)が首相経験者等の重要人物との協議により決めたらしい。

西園寺は,公家の出身。それほど政治力も,威厳もなく,元老の職務は全うできなかった。

元老の力がなくなった日本

軍令機関(陸軍参謀本部と海軍軍令部)と軍政機関(海軍省,陸軍省)は天皇を挟んで全くの別の指示系統。

軍令機関と内閣の両方に精通している人物がなくなり,乖離が始まる。

不況と相俟って,戦争へ

不況の政策として対外政策を打ち出した軍。

軍の暴走を止められない内閣。

まとめ

明治憲法下には,内閣と軍,帝國議会は独立組織としての性質がかなり強かった。

そして,元老と呼ばれる憲法外のアクターがおり,彼らがその独立性をうまく埋めていた。

しかし,元老の多くがこの世を離れ,元老による独立性に対するコントロールが薄くなると,軍の暴走が止められない。

この反省を踏まえて,現行の制度では,議院内閣制の採用,内閣による軍の統制,シヴィリアン・コントロール等が行われている。

傍論

明治憲法アレコレ

法律の留保

:基本的人権に関して,その要件や外縁は,法律によって定められていた。これは,批判されるところであるが,当時の学説の通説であった。この規定は,実は国家が恣意的に基本的人権を制限する余地を残すために,このような規定が存したのではない。

これの本旨は,基本的人権の保障にあった。

立法は,立法府の専権であり,立法府は,国民の代表の集合体たる民選議院である(日本も少なくとも衆議院については民選であった)。このような前提に照らせば,国民の代表者たちは,有権者(国民)の意見に従う必要があり,国民を陥れたり,攻撃したりするような立法はしないと考えられてきた。このようなロジックにより,基本的人権を保障しようとする考え方を法律の留保という。しかし,この状況は諸外国でも見られたが,最終的に為政者が国民の意に反し,恣意的な基本的人権の制限等が為されるような状態が創出されたため,日本国憲法も含め,現代の通説としては,法律の留保は採用しないことになっている。

明治憲法は,欽定憲法であり,天皇主権?

天皇主権であるのは,憲法の第1章に規定があります。しかし,その成立過程を見ると,伊藤博文らが作成しています。とはいえ,それは天皇陛下による嘱託に過ぎないと考えるべきでしょう。

天皇主権というのは,規定されていますが,その運用が天皇主権説(狭義)なのか,天皇機関説なのか,というのは規定がありませんでした。当初は,天皇機関説に親和的な制度運用が為されていますし,作成者たちもそのつもりであったと思われます。なぜなら,若し現実に天皇が自らあらゆる職権を行使し,失敗をした場合,天皇制の存立にかかわる可能性があります。となれば,日本の文化は失われますし,明治政府の創立者たちが,西洋と対比し,キリスト教の補完物,乃ち精神の拠り所として整備してきた国家神道が崩壊することになります。つまり,天皇が政治において実際に失敗することは,日本の崩壊につながりかねず,このような意味で,実際は多くの機関や人が輔弼する,天皇機関説的運用が為されてきた。この運用は,現行日本国憲法における運用と近しいところもあった。

しかし,不況期に軍部が台頭すると,天皇主権説を主張した。それでも,現実に天皇が自ら政治を行うことは少なかった。特に,昭和天皇は,そのようなことは為されなかったと聞いたことがある。一方,明治天皇はかなり積極的に政を行ったようである。 

コメント

タイトルとURLをコピーしました