現役国立大学生が考える,中高生が普通科の勉強をすべき理由【長文】

勉強
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<目次>

  1. 本質的な理由

1.1 「常識」の習得

1.2 詰め込み教育のメリット

  2.形式上な理由

2.1 大前提として勉強は,強制されるべきものでない。

2.2 将来をどう生きるか。

3.私の思い

3.1 私の真の願い

3.2 私自身の勉強に対する考えの総括

こんにちは,中高生の皆さんには,国数英理社等の普通科の勉強をなぜやらなければならないのか,ということを思っている人がいるのではないかと思います。もう少し言えば,簿記や商業,工業等の役立つ実学等の学習は将来役に立ちそうなものですが,三角関数や連立方程式等将来使う人は限りなく少なく,自分はその数少ない中には入らない予定であり,それにもかかわらず,普通科の学習をどうしていなければならないのか,という疑問です。私も実際にこの疑問を持ちました。そして,その際に同時に思ったのは,この問いに対する説得的な回答がないということでした。

これに対しては,当時の私も(おそらく今この疑問をお持ちの方も)「大人はこれにまともな答えをよこさないくせに,勉強しろというのか」と思われたのではないでしょうか。私自身は,親から勉強しろとは一切言われない家庭でしたが。これに対し,おそらく世間一般から見れば,大人側に回った私がこの問題に対する説得的な回答を試みようと思う次第です。

本書においては,大学に行くため,とか将来のため等の形式的な回答はとりあえず,棚に上げ,本質的な回答をまず試みようと思います。そのあとで,一般的に言われる形式的な回答を考察し,私なりの答えを出したいと思います。

予め申し上げておきますが,私は勉強をしなければならない理由はない,と思っております。尤も,勉強すべき理由はあると思っておりますが。

1.本質的な理由

1.1 「常識」の習得

私は,1つとして「常識」を習得するという意味合いがあるのではないか,と思います。これは,特に中学校や小学校の学習にこの要素が濃いのではないか,と思っております。例えば,かつては「読み,書き,算盤」と言われ寺子屋で学ばれていたこと等です。これらは,社会生活でおそらく使っていると考えており,知ったり,できるようになったりすることが必要である,と考える人もまた多いのではないか,と思います。

 ところで,常識とはなぜ学ばなければならないのでしょうか。そもそも,常識とは何でしょうか。辞書を引けば,「常識とは,社会一般に知っておく知識」等といった定義がされているものかと思います。しかし,この定義は非常に曖昧であり,不変のものではなく,また普遍のものではないと思われます。つまり,どこまでが常識なのかというのは,容易に判断することはできず,またそれは時代等によって変わるものであろうと思うのです。

例えば,私が体験した中で驚いたことの一つとして,中学生と会話をしている時に,スカンディナビア半島を知らない,名前を聞いた記憶がないといわれたことです。私は,スカンディナビア半島は常識の中に入っているものであると認識していた,そして認識しているわけですが,世の中の中学生の中には,或いは大人の中にも,これは常識の外にあるものであると考えている人もいるわけです。また,時代による変化と考えられるのは,これも私が中学生や高校生と話していて,トランプの仕組みを知らないといわれたことです。トランプとは,♢,❤,♤,♧という4つのマークに対して,それぞれA,2,3,4,5,6,7,8,9,10,J,Q,Kという13個の数字(一部文字化)が1枚ずつ対応している他,スペシャルカードとしてのJOKERが2枚入っているものですが,このことを知っていることはどうやら常識であるとは決めつけられないようです。私と同じ年代或いはそれ以上の方々にとっては,これは疑うこともない常識であろうと思います。私も修学旅行や学校でトランプやUNOで遊び,時には大富豪(トランプゲーム)で大富豪が大貧民を罵倒した(尤も,気が置けない人同士でのノリです)ものですが,現代の子供はトランプで遊んだことがある人ばかりではないらしく,このような状態になっているようです(若しかすると,近い将来,大学入試や高校入試において,トランプを使った数学の問題にトランプの仕組みに関する記述が付け加えられたり,そもそもトランプを用いた問題が消滅したりするかもしれません。

このように,常識というものの具体的な範囲を確定することは難しいですから,とりあえず上述した言葉による定義に落ち着かせ,なぜ常識を獲得する必要があるのか,という議論に入りましょう。

 常識を獲得するべき理由は,おそらく社会生活を円滑にかつ自分に利益があるように営むためでしょう。我々が生きている社会において,人々は一定のルールに従って生きています。常識が欠如しているということは,これを知らないということであり,そのような人は社会で生きていくことは容易ではないでしょう(なぜなら,色々なことを手取り足取り教えてくれる人が現れることを期待することはあまり現実的ではないからです)。場合によっては,自分が獲得できた利益を逃したり,被るべきでない損害を受けたりするかもしれません。つまり,常識がないと,自分が損失や機会損失を被るのです。

 私が述べた「社会生活を円滑にかつ自分に利益があるように営む」ということはこれだけに留まりません。人間関係においても常識がないと厳しいでしょう。人間は,会話をしますが,この会話はある程度共通の知識を持っていなければ,盛り上がることは難しいでしょう(何からなんでも説明する必要がある人とは積極的には喋ろうと思わないのではないでしょうか)。確かに,完全に知識範囲が合わないと,お互いの世界を伝え合うことで盛り上がると思いますが,一方の知識が他の一方の知識を包摂している状態であると,盛り上がりに欠けるのは間違いないと思います。その共通する知識は,必ずしも常識であるとは限りませんが,常識であることが多いのは事実でしょう。となると,人間関係を得ることができず,孤独に生きていかなければならず,人間関係が多いのが必ずしも,メリットがあり,高効用であるとは限りませんが,常識もなく,人間関係がないというのは社会を生きていくのが厳しいのではないか,と思います。なぜなら,前段落で述べたような状態になる可能性があるからです。

また,人間関係を獲得できても,その相手方が常識を持っており,かつ常識に従って行動する人である場合に,冠婚葬祭等のいわゆるオフィシャル或いはパブリックな場において,あなたが常識を知らず,それに反するような行動をとった場合(この場合が多いかと思いますが),相手方はあなたとの人間関係を清算しようとするでしょう。このように,もちろん人間関係が必ずしもあなたに効用又はより高い効用をもたらすとは限りませんが,あなたがもしそのような人間であった場合,そこで得られるはずの効用が得られないことにより,その分人生を楽しくならないことがありえるのです。ここまでは,プライベートな人間関係を念頭に置いて話を進めてきましたが,これはパブリックな人間関係等でもこうした事情は起こるでしょう。むしろ,その方が顕著にこの状況が現れるかもしれません。

 ここまでの議論を参照すると,また一般的な議論では,常識はすなわち知識の一部分であると思われるかもしれず,それは正直あっているのは間違いないと思います。しかし,私はこの議論をする上では,このように捉えると問題があると思います。これが「常識」と表記した理由です。

 では,私が考える「常識」に含まれる,常識には含まれていない部分は何なのか。それは,頭の使い方,思考法の一般形であると思います。つまり,普通このような文章があれば,このように解釈するであろうといったことであったり,話を聞いてこのように理解するということでもあったり,文章を書いたり,話をしたりします。これは,個人の思想等についていう考え方とは一線を画すものです。読解力や理解力と言い換えてもよいでしょう。これを学ぶということは大切であり,これを中高生のうちに学習すべきであると思います。これが大切である理由は,言わずもがな社会生活上で他人との情報の伝達,交換を行う上で,その理解の方法や伝達の方式というのは共通であることが求められているからであり,またまともに作られた文章やまともな人間が話した内容であれば,その辺縁を除き基本的には論理的に一意に定められるものであるからです。これは,国語や数学によって習得されるものであると思っています。

 これに対しては,次のような反論があり得るかと思います。そのようなものはコミュニケーション等を日常生活の中で行っていることにより容易に習得されるものであり,中高生が学校での勉強により習得すべきものではないという反論です。なるほど,確かにそのような面もあります。例えば,世界の中では学校教育を受けていない人がいますが,彼らの中でもきちんと意思伝達は口頭によって行われています。しかし,それは言語というものはある程度文法や単語等が異なる等の粗雑さを持ったとしても,正しく(ここでいう正しくとは,発信者が想定した内容がその通りに受信者に伝達されることを言います)伝わるということが往々にしてあるからです。

このような例を体験したことがある人は多いでしょう。ある人が書いた文章が論理的に支離滅裂であり,何を言いたいのかわからないといったことや,ある特定の人との会話が成立しない等といったことです。この原因を全て「常識」の欠如に求めるのは誤りでしょうが(例えば,字が汚かったり,滑舌が悪かったり,声が小さかったり,聞き取りにくい声質であったりする場合もあり得ます),少なくとも,このことが原因のことは間違いなく存在するでしょう。つまり,言語を奔放に使っているだけでは,習得されないものがあるということです。

また,より効率的な伝達方法を学ぶこともできます。これが,学校教育において「常識」を学ぶことが求められる理由です。

 また,文章の読み書きについて限定すれば,それは読書に事足りるという反論もあり得るかもしれません。しかし,それに対しても私は完全ではないと考えます。確かに,読書により意味を理解するということは,その文意を読み取るということです。しかし,このことだけを持って「常識」の習得に読書で足りると判断するのは尚早です。なぜなら,その解釈が自分自身独自のものであり,一般的ではないことがあり得るからです。私は,独自の解釈,ユニークな理解全てを否定するつもりはありません。小説やノンフィクション作品等において,様々なことを考えることは,するめをかじるように,その作品をじっくりと味わうものであると思われ,またフィクションの作品等はそのようなことを期待して,詳細をぼかすということ等が行われています。

しかし,論説文や論文,専門書等において,そしてその文章に瑕疵が無い状態であって(このような文章を書くのは大学教授等の専門家であり,彼らは同時にアカデミックのスペシャリストでありますから,基本的にこうした問題は発生しないと思いますが),それを内容の解釈を独自にしていては,自己の活動に影響が出ており,これは情報の伝達が「正しく」できておらず,そしてその原因は受け手にあるということになります。そして,これはなぜ発生したかといえば,自己が判断した内容を他人と交換することによって,その普遍性,一般性を確認しなかったからです。つまり,自我がしっかりとして,論理的な思考が少しずつできるようになってきたタイミングで,他人との情報交換等を通して,基本的な文章の読み方を教える必要があります。そのタイミングこそが,小学校高学年から高校生であり,このタイミングで国語や数学により,これに対策を行うべきであると思われます。

 しかし,実際に私が念頭に置いている状態,つまり文章が書けない人やきちんと会話によって言いたいことを伝達できない人がいるのか,このような状態が作者の想像,或いはでっち上げであると思われる方がいるかもしれません。私の経験が特殊である,といわれればそれまでかもしれませんが,少なくとも私の経験の中では,そのような人は意外と多いと思います。論理関係がめちゃくちゃであったり,句読点の使い方の誤りにより意味が複数通り解釈できたりするといったことがある程度あります。他の言語の事情について,私は詳しく知っているわけではありませんが,日本語は句読点の使い方で意味が変わったり,文章の順序によって意味が異なったりする等,意味を伝えることがある程度難しい言語であるように見受けられます。これをきちんと伝え,また自分自身が理解することについてある程度の学習,訓練が必要であるというのは,一定程度説得力があると思われます。

 では,なぜ数学が必要なのか,と疑問に思われる人がいるかもしれません。つまり,文章の伝達のことであるから,国語が必要なのは理解ができるけれど,数式を扱うことと文章をきちんと理解することがつながらないという疑問です。私も必ずしも,数学である必要はないと思っています。どういうことかというと,数学がここで担う役割というのは,論理的思考力であるといってよいと思います。つまり,論理についての学習をするために数学を用いるのです。私が思うに,基本的に論理は万国共通です(数学は論理と共通な記号を用いているがために,言語がわからなくても通じるのであると思います。数学検定協会の数学は万国共通の言語かもしれないという宣伝文句(間違っていたらごめんなさい)は,このような意味で真であると思います)。この論理を日本語の語彙に適用するということを行うわけであって,その基本の論理を学ぶ必要があります。この時に,本来は論理学がこれを背負うべきであると思われますが,中等教育において,この役割を担っているのは数学であると思われます。例えば,中学校で習う証明法や高校で習う「集合と論理」がこれに当たると思います。つまり,私が,数学が必要と主張するのは,論理学的要素を担っているのが中等教育においては数学であるからであって,論理学の授業等を行うのであれば,それでも問題ないと考えています。

 このように,私が考える1つ目の理由は,「常識」を身に着けるためです。

1.2 詰め込み教育のメリット

 とはいえ,高校の学習になると特に,「常識」に包摂されるべき分野は学習しなくなります。不親切な先生に習っている生徒は,三角関数などを見て,何のために使うのかと思い,丁寧な先生に習っている人でも,波の性質を表すのに有用なのはわかったが,私はそのような方面のことをやるつもりはさらさらない,と思っている人が多いのではないかと思います。これについては,先述した数学による論理的思考力のトレーニングであると説明することもできますが,それでは説明できないことも出てくるでしょう。これに対して私が思うのは,詰め込み教育の有用性からの説明です。

 皆さんは,現段階では,文系と理系や各学問領域(政治学,物理学等)がそれぞれ別途のであると考えているかもしれません。しかし,それは基本的には誤りであり,文理の垣根やそれぞれの専門範囲を越えるのは比較的容易であることが多いです。ここから何が言いたいかといえば,特に大学に行って勉強するような学生にとっては,ある程度の体系的な知識というものが必要となります。例えば,大学におそらく入るとすぐに(ちょっと詳しい高校生なら既に知っているでしょうが),理系の学生は,大学入学後,運動方程式が微分方程式によって表されることを知ります。しかし,この時物理における運動方程式(F=ma)の話と微分・積分の話の基礎を知っている必要があります。つまり,物理と数学の話を共に理解していることが前提で,その知識をつなぎ合わせるということをするわけです。このように,自分とは関係ないと思われるところの話が,実は自分の専門の話と密接に関係していたり,表裏一体であったりすることがあるわけです。より平易な例で類似した状況を挙げれば,一次関数のグラフと二次方程式を解くことが表裏一体であることと,ほぼ同様であってよいでしょう。このような事態にある程度対応できるために,各分野における本当に基本的な議論を中等教育の中で,特に高等学校において抑えているわけです。

 また,やや特殊な例かもしれませんが,自分が他の分野に興味を持ったということや,全く今まで縁がなかったことで生きていこうと思い,そこに勉強が必要となることがあります。この際に,全く何も知らないことから勉強するのは,大変です。特に,独学でそれを行おうとするのは,至難の業でしょう。この場合に,本当に基礎だけであると思いますが,また必ずしも,このような例ばかりではないと思いますが,高校や中学校での学習の範囲にその基礎の内容が含まれていれば,学習の取り掛かりが容易であったり,理解を促進したりするでしょう。このような場合において,高等学校や中学校の内容が役立つことがあり得るでしょう。

 挙げた2つの例について,それを中等教育で行うことに理由はあるのか,と思われる方がいらっしゃることでしょう。中等教育の話というのは,一見すると抽象的な話で,いつどのように使うのか,わからないと思われることが多いように見受けられます。それは,おそらく本当に基礎の部分というのは,道具として使われるものであるから,その通りであると思うのですが。このようなあまり面白みのない部分というのは,自分でコツコツと学習するというのは,非効率的です。ではどうするのが効率的か,というと,ある程度の強制力を持って理解させてしまうことが求められます。現実に言えば,画一的な教育内容を与えて,それをテスト等といった理解度を示す指標を用意したうえで,その指標が達成されるまで,訓練するのです。これは非常にこのような性質を持つものを習得させることについては,有用であり,また生徒側もその後の学習に役立つことが効率的に学ぶことができ,そのあとから見れば,このような方式でよかったと納得することでしょう。

 とここまで議論を続けてきましたが,大きな問題が未だ残っています。では,その教育内容は適当なのか,という疑問です。これについては,常識の範囲とは具体的にどこなのか,と同様に難しい問題であり,これに対し,各所から様々な議論が出ていますが,概ねは納得されているように思われます。そして,これもその時の時代背景や価値観等によって大きく変動しうるものであると思います。その一例が,詰め込み教育からゆとり教育の変更,ゆとり教育からの脱却であると思われます。

 このような前提状況を念頭に置いたうえで,私の考えを申し上げようと思います。私が思うに,文理を高校生の段階で分けることには反対致します。それは,高校の文理共通教育までの内容では,不十分であると思うことと,高校1年生又は2年生の学生に,単純に考えれば,人生の進路を一度二分させることは酷ではないか,と考えるからです。

 まず,高校の文理教育では,理系は多くが歴史科目を学習せず,文系では理科の発展科目と数学Ⅲを学習していません。しかし,これらは大学からそれぞれの専門分野に進もうとすれば,比較的に基礎的に用いるものであり,これを学習していないというのは,よろしくないのではないか,と思います。また,大学レベルでいう「一般的」に物事を考えたり,理解したりしようとする際に,日本史及び世界史,基礎数学は必要不可欠なものです。

 そればかりか,科目選択によっては,文系で法学部に進んだにも拘わらず,高校世界史Bを履修していないという者がいたり,放射線技師の学科に進んだにも拘らず,物理を未履修である者がいたりします。これは,大学の基礎講義がより複雑で面倒なものになるという大学側,教育者側の弊害があるのみならず,学生側にある種のハンディを与えるものです。では,それに応じた生徒のみ受け入れればよい,つまり入試で世界史を必須科目とする等の措置を採ればよいという反論があるかもしれません。しかし,それは前述した通り大学生としての適格を失していると主張に加え,あまりにも酷なのではないかと思います。詳細は,次の議論と重複しますので,後に譲ります。

 次に,高校1,2年生,特に高校1年生という,大抵の場合高校受験を終えて1年も経ていない学生に,その後の進路を大きく制限をするような選択を迫るというのは,不適当であると思うのです。このような場合,彼らは大学進学の後,就職や企業をすることを考えているのであり,5,6年後の未来をこの段階である程度制限すると,その先方向性が変わった際,その進路変更をするのに大きな負担を課すことになり,そのような事情になるのであれば,文理選択はやめたほうが良いと思うのです。

 私が考えるのは,国公立高校普通科は文理共通教育(芸術科目等を除く普通科科目においては,一切選択を許さない)にしてしまうことです。数学は,数学Ⅲまで全生徒履修とし,理科,社会には,現在の地歴Bや公民,理科発展を少し内容的に軽くしたような内容をまとめた,理科総合や地理,歴史,公民等の科目を用意し,それを全生徒学ぶという内容です。このようにすることにより,理論的には全生徒が能力次第で,自分がその時に行きたい大学,学部に進学できることになります。このような教育が嫌だという生徒に関しては,実業高校や私立高校に進学することにより,選択の余地を与えることができます。

 やや傍論を挟みましたが,私は詰め込み教育により,高等教育の基礎を画一的に学ばせてしまうこと,それにより体系的な知識を学ぶことが,中高生が普通科の勉強を行うべき理由の1つであると考えます。尤も,教師の側がこのようなことをきちんとできる程度の知識と能力を持ち合わせている必要があり,私の感覚ではそれは難しいことではないと思うけれど,世の中においては必ずしもそうではなく,私の経験の中でも,論理的に誤った説明を平気でする人や誤った知識を何のためらいもなくする先生が少数ではありますが,いらっしゃるようでして,この問題を解決することが,とりわけ教育格差をなくすことについて,重要なことであると考えています。

2.形式上な理由

2.1 大前提として勉強は,強制されるべきものでない。

 ここから,比較的よく言われる理由について考察を行っていきたいと思っています。まず,勉強というものは強制されるものではない,と主張されることがあります。これは,私は間違いないと思います。私もここまで勉強をすべき理由についてはいくらか提示してきましたが,勉強しなければならない理由はないと思います。すなわち,普通科の勉強をやらなければならない切迫した理由はなく,勉強はしたい人又はしなければならないと考える人がするべきものであるということです。勉強をしなかったからといって,直接的にそれを要因として殺されることはありませんし,この社会の中で抹殺されるということもこのことだけを理由としては為されないでしょう。

勉強をしなくてもいいという理由として,よく中卒の成功者や大卒のニート等が挙げられます(つまり勉強をしたとしても必ずしも社会の要求に応えられるとは限らないこと,逆に勉強しなくても,その役割を果たしうることを主張していると思われます)。しかし,様々な指標から,私自身も勉強をしたこと,或いは勉強ができたことが有利に働く社会であると感じております。しかし,それでも学歴と社会的な成功或いは個人の幸福が直接的に結びつくものではないと考えております。

 というか,そもそも私としては,このような議論をすることが誤りであると思うのです。勉強は人に強制されてやるものではなく,純粋に面白いという知的好奇心或いはこれは勉強しければならないという使命感によって勉強は為すものであり,このことは歴史的に間違いない話なのです。どういうことかといえば,勉強とは,元来生活に密接に関係するものではありませんでした。つまり,究極的に人間に必要なものは,食であり,これを担うのは第一次産業です。その他の職業というのは,社会生活や豊かな文明の生活を享受するために必要とされるものであって,人間の生命が欲するものではありません。故に,前近代の世界においては,一般市民たちは生きるために,第一次産業を行い,それをする必要がない人々,つまり生命の安全が早急に脅かされることはない人々が,今でいうところの科学技術を進歩させ,学問を行い,政治を行ったのです。しかし,民主主義的思想,共和制思想が発生し,それが一般市民に啓蒙され,市民革命が起こり,民主主義世界が誕生すると,政策の意思決定者つまり主権者が一部の特権階級や専門家のみならず,一般市民に拡大され,それに伴いそのための知識を彼らに渡す必要が生じます。これにより,義務教育という制度が確立されたのです。大きな枠組みでとらえれば,この歴史解釈は妥当であると思いますが,これで私が言いたいことは,学問はこの意味で「贅沢品」であり,そしてこれを今の先進工業国の子供たちは知らないのです(とはいえ,これを知るためには,勉強をしなければならない,というパラドックスがあるわけですが)。

 このように論じると,私が義務教育に反対する思想を持っていると思われるかもしれませんが,私は義務教育を否定するつもりはなく,寧ろこのような素晴らしい制度を確立した先人と,これを今日においても幾らか改善点はあるにしろ,崩壊しないようにきちんと運営している国及び地方公共団体の職員各位に対しては,感謝をしています。ただ,私はあまりにも勉強をしなければいけないという強迫観念に駆られている人が多いのではないか,と思うのです。いや,若しかすると,知的好奇心がない人が少ないのかもしれません。勿論,勉強に対し興味を持つことだけが知的好奇心ではありませんが,そのような人々は他の何に対しても興味を持たないような人が多いように思われます。

 ここまで論ずると,以下のような反論を持ち人がいらっしゃるかもしれません。もし勉強をしない人が多数になってしまうと,国が滅んでしまうのではないか,という疑問です。この問題を考えるには,2つの視点が必要でしょう。1つは,国内の話,もう1つは,国際的な話です。

いずれにしても重要な前提は,おそらく実際に勉強をしない人が増えたとしても,一定程度勉強が面白いと感じる人,勉強をしなければならないと本気で考える人は消滅しないということです。これを裏付ける客観的な理由を持ち合わせていないのですが,帰納的に容易に推測できます。すなわち,我々の先人たちは義務教育といったものがない状態でも,自身の興味関心に基づいて,或いは社会的な要求に応じて,そして周囲の人間の影響によって学問を進歩させてきました。その集積が現代社会であるということが言えます。ということは,我々の中には知的好奇心によりそれぞれの学問を進歩させる人々がいるということで,つまり彼らが独自に啓蒙活動をすることにより,そこまでしなくとも,自身の研究結果を記録し,発表することにより,それらの分野に対し興味を持つ人が現れるのは,自然のことであろうと思います。このような推測により,ここから勉強を自発的にする人は消滅しないという前提をとって,議論を進めます。

 国内についていえば,確かに我々の社会は,民主主義社会であるとされますが,おそらくこの国民が「読み書き算盤」や常識,一定レベルの判断力を有していることを前提とするこの社会は,維持できないでしょう。ではどうなるかといえば,端的にいえば,前近代的な社会形態が,現代技術に基づいて発生すると考えられます。換言すれば,政治は一部の特権階級により運営されるある種の専制政治へと移り変わり,経済も露骨な資本主義に基づく格差社会となり,勉強をした人と一部の富裕層,お金を稼ぐことに長けている人達が少数で圧倒的な富を持つ一方で,勉強もせずかつ何もこれといった才能を持っていない人は,貧乏で前者の人々により搾取されるでしょう。尤も,前者の人々が勉強をしたことによって,倫理観を身に着け,あまりにもひどい状態になることを回避するような救済措置を設ける可能性はありますが。このような社会状態になり,倫理的な問題を無視すれば,このような社会はおそらく目的合理的な社会であり,日本の国力自体はさほど変わらないのではないか,と思われますし,少なくとも現代の日本とは全く性質を異にすると思われますが,日本国と称する国が存続することは間違いないでしょう。

 国際的な目で見れば,かなり国際競争力が落ち,現在のように先進工業国として地位にあることは厳しいでしょう。となれば,内憂外患の,内憂は仮に問題ないとしても,外患,つまり他国との戦争に敗れたり,競争力を失った結果,ある国に経済的にものすごく依存しなければならなくなったりすることは十分にありえるでしょう。

 このように考えると,確かに国際的な競争に負けたり,経済力が低下したりすることは可能性としてあり得,その延長線上に国が滅ぶということも想定はされます。しかし,それでも現在の日本に当たるものが何らかの形で存続するのは間違いないことであろうと思われます。つまり,それが独立国家ではないとしても,現在の日本社会とは大きく性質を異にするとしても,生活ができないということはないでしょう。また,前提で述べたように,つまり,社会において「お前の代わりはいくらでもいる」という状態であって,もしあなた一人が勉強しなかったとしても,さほど変わらず,他の誰かが勉強するでしょうから,勉強することを完全に自由にしても,そして現在においてもある程度自由であるべきだと思います。つまり,勉強をするかどうかは完全に自由であり,強制されるべきではないし,強制する理由はあまりないということになるのではないか,と思います。

2.2 将来をどう生きるか。

 普通科の勉強をすべき理由として,よく挙げられるのは「『将来』のため」というものです。この言葉には,大きく分けて4つ種類があると思われます。1つ目は,日本が学歴社会であるから,というもの。2つ目は,高校入試や大学入試,奨学金等の直近の将来のためというもの。3つ目は,自分の将来の職業に関するもの。最後は,自分の理想像に対するものです。それぞれについて考察をしていきたいと思っています。

 1つ目についてです。確かに,日本には学歴社会の要素が残っているという話はよくされます。近年緩和傾向にあるとは言え,その要素があるのは間違いないでしょう。そして,完全になくなることはないと思います。というのは,企業側が学生を採用する時に,それは自らが考えるところの優秀な学生を採用しようと躍起になるわけですが,その優秀な学生を採用する際に,具体的な指標や情報を以ってその結果を決めるわけです。その時に例えば,ハードな仕事で体力がある人がいいと思えば,部活動を大学生になっても一生懸命やっていたような人を選ぶでしょうし,特定な資格が必要であれば,その資格を持っている人を選ぶでしょう。私は就活の経験もなければ,一般企業で働いた経験がありませんから,私が言っていることは単なる憶測にすぎませんが,論理的に考えるに,企業は,作業が速く,頭が切れ,クリエイティヴで,課題解決能力があり,コミュニケーション能力が高い人などを求めるのではないかと思います。このような人を見つける際に,具体的な指標で測りにくい部分が多いでしょう。こうした場合に,巷でいわれるには,企業が自身の新卒社員について調べたところ,仕事の出来,成績と学歴には一定程度の相関関係があったようです。つまり,仕事ができる人の中には,高学歴の人が多いということです。そして,先ほど述べた前提条件,学生の能力が不透明な場合が多いということを併せ考えると,できるだけ高学歴な人の中から選考をしたほうが,自社に優秀な社員を引きこめる可能性が高まるということになります。また,国立大学,特に難関大学に進学したということは,個人のポテンシャルの問題もありますが,少なくともその時点では,ある程度の努力をしたというように評価することもできます。つまり,情報の非対称性がある就活市場において,一般企業は1つの有用な物差しとして学歴を用いているわけで,このような意味で学歴というのが一定程度企業から重視されていることは事実であり、高学歴出身者にとっては,この学歴というものに代わる新たな指標のようなものが出てこない限り,高学歴,有名大学卒の学生の就活が有利になるでしょう。

 と,ここまで学歴社会について論じてきましたが,これは勉強をしなければいけないことの直接的な理由にはならないでしょう。確かに,普通科で勉強を頑張り,難関大学や国立大学,有名大学に進学するというのは,自分が就活を行う上で,有利になり得,それを獲得するために勉強を頑張ることは尊敬に値します。しかし,社会で生きていこう方法は主食だけではありません。自ら起業すれば,雇用者側にはなりませんし,同じ雇用者になるとしても,専門職に就く場合,そこにおいては,学歴が判断されることもありますが,専門職の知識,資格等が判断材料になるため,学歴が一般企業の就職活動ほど重視はされないでしょうし,学歴が重視されたとしても,一般的に言われる学歴とは異なるものが存在することがあります。このように考えれば,一般企業の就職には,現状学歴が優位に働くのは間違いありませんが,それ以外の場合に関しては,普通科の勉強を一生懸命頑張った結果手に入れた学歴が有利に働くとは限らないといってよいでしょう。

 まとめると,1つ目の場合に,「将来のために勉強すべき」という主張は,多くの場合的を射ていることは間違いないけれど,それが完全な理由であるかといえば,そうとは言えないと思われます。

 2つ目について考えてみましょう。高校入試や大学入試,奨学金の獲得等の比較的直近のためのものです。これについても,2つパターンがあると思われます。これらのイベントをその将来につながるものとして捉えているかどうかです。捉えている場合,それは,結果的に2つ目のこと以外の話に結局は集約されますから,そちらの議論を参照していただければと思いますので,ここでの詳細な考察は割愛します。議論の対象となるのは,捉えていない場合,すなわち高校入試や大学入試等を単発のイベントとして考えている場合です。例えば,いい高校に入りたいからやテストで高得点を取ることにより何かを買ってもらいたい,欠点を回避しなければ進級できないといったことです。これは,主観的に勉強しなければいけないと思っている場合であり,客観的に見れば,勉強しなければならない理由はなく(例えば,進級してももう1年学習すればよいし,いい高校に入ることよりその後の人生の方が問題である),これは勉強をすべき理由として議論する必要はないと思われます。

 3つ目について,将来の職業に関するものです。この議論というのは,基本的に私が1.本質的な理由で議論した場合の話に集約されると思われます。この理由をこれから説明していきたいと思います。まず,将来の職業のために学習しなければならないというのは,2つのパターンに分けることできます。1つは,何か就きたい職業等があり,それに就くためには,特定の知識を勉強しなければならない場合,2つ目は,それに就くためには,特定の知識等の習得が必要だが,その習得のためには,また別の勉強が必要となる場合です。この場合に,必要な勉強が普通科の勉強でないとすれば,それは今回の議論の射程外ということになり,考える必要はありません。では,必要な勉強が普通科の勉強である場合どのような結論になるかといえば,それは「勉強しなければならない」と思っている場合であり,1.2や2.1議論がそれぞれ適用されるでしょう。なぜかといえば,私は勉強を純粋な興味を持って勉強することと勉強の必要性を理解したうえで勉強することについては,これは理由となるという前提で議論をしているからです。わかりにくいかもしれませんが,私はこの立場を採っているつもりです。このように考えれば,第3類型について,これらが勉強すべき理由になるのは,問題ないと思われます。

 4つ目について,これは若しかすると典型例とは言えないかもしれません。しかし,できれば私の考察を読んで頂きたいと思います。そもそも,自分の理想像に関するものという意味が分からないという方がいらっしゃるかもしれません。これは,自分はこうなりたい,このような人間になりたい,このような性質を持った人間になりたいというために勉強するということです。為人と勉強は一線を画すものであると思われる人がいるのは,その通りです。しかし,私が言いたいのはそういうことではありません(きちんと勉強した人がきちんとした人格を持っていることは往々にしてあります)。このような知識を持った人間になりたいから,この分野について学習してみようとかそういう意味での為人です。このような気持ちを持つ多くの場合は,それは何か将来の予定があった上でのことであり,これまでの1~3の類型に集約されると思います。しかし,そういうことはなしに,ただ個人の思想や思考としてこのようなことはわかっておきたいと思う場合があり得ると思います。具体的にいうと,常用漢字くらいは全部書けるような大人になりたいとか,四則演算はきちんとできるようにしておきたいとかです。このように考えると,共感できる人が少し増えたかと思います。これは理由として考えられるかといえば,言えると思われます。これは,勉強の必要性を真に感じている時であり,このような動機は勉強をする理由として説得的であるというのは,私の3つ目後半の考察の論理を準用することが可能であり,勉強する理由としては,説得的であるといえると思われます。

 「将来のために勉強しなさい」や「勉強しなかったら,将来困るわよ」といった内容により,勉強することの理由を説かれた人は多いのではないかと思われます。私の周囲には多かったです。しかし,その中には私が思うに,4類型存在し,その中にはそれは理由としてはあまり説得的ではない例もありました。1類型である,日本は学歴社会であるから,勉強して少しでも豊かで楽な人生を歩むためには,学歴を身に着けることが必要であり,そのために勉強すべきであるという考え方です。ただ,これも必ずしもその方向しか人生を歩む手段がないわけではないのだから,完全ではないということであり,有効な理由であることは間違いありません。とすれば,他の類型と併せて考えた時,将来のために勉強をするべきであるという内容は,かなりの場合理由となるといってよいかと思います。

但し,勉強により世界が広がったり,人生の選択肢が増えたりすることは間違いありません。これに対しては,それは学歴社会でのみそのようなことが言えるのであるという反論があるかもしれません。しかし,それは誤りといってよいでしょう。まず,勉強することにより自らの知識が増加します。これは,単純に言えば,自分の世界が広がるわけです。私たちは,基本的に我々が知覚している部分のみが世界であると判断し,その中で色々と思考したり,想像したりするわけですから,その世界が広がるということは,単純にそこにある事象や現象の数が増えるということで,こういう意味で選択肢が広がるということが言えると思います。つまり,単純に自分に見えるものが増えるという意味での,選択肢が広がるということです。しかし,世界が広がり,人生の選択肢が広がるというのはこういう意味だけではありません。それは,勉強したことにより,論理的思考力や基礎知識等が身についたことにより,実際に目指すことができる目標が増えるということです。例えば,数学者になろうと思ったとしても,その人が公立小学校で履修する程度の算数を使いこなすことができなければ,大抵の場合において,その目標,夢を実現させることは極めて困難,不可能に近いでしょう。しかし,例えば,国立大学に進学した学生が数学者になるというのは,前記の例よりはたやすいでしょう。この説明として,数学及び算数の知識がないからであるという説明(つまり,1つ目に述べた意味での世界が広がるということ)も可能かもしれませんが,それだけでなく,勉強等により論理的思考力や基礎知識を習得するということを十分にしていないから,目指し難いという説明も可能でしょう。このような例を準用すると,これこそ学歴社会の話であると反発される方がいらっしゃるかもしれませんが,俗にいうところのホワイトカラーとブルーカラーというのは,後者の例に当たり,専門職と一般職というのは,前者に当たると思われます。

  • 私の思い

3.1 私の真の願い

このような論調を採ると,このような理由づけによって,必死に大切な我が子を勉強させようとしている親御さんや生徒に明るい未来を進んでほしいと思われる先生方の努力を無碍にするように思われるかもしれませんが,私はそのようなことは願っておりません。私がこのようなことをあえて申し上げるのには,確かに私自身には誰が勉強をしようが関係ないということや私以上のポテンシャルを持っている誰かが勉強をすることにより誰かに追い越されるのを防ぎたいという気持ちが全くないことはないですが,いくつかの理由があります。それについて,お答えします。

まず,強制されたところで勉強はできるようにならないということです。これは,勉強に限ったことはありませんが,人間は強制されたことよりも自発的にやったことの方が出来はよく,また上達が早いように思えます。なぜそうなのか,本当にそうなのかと聞かれれば,私の経験則に拠るとしかお答えができないのですが,「好きこその物の上手なれ」という諺があるように,これは一般的な評価であると思っております。また,心理状態とパフォーマンスには一定の関係があると心理学等の専門分野でも示されていると聞いています。

そればかりか,どうやら人間人に強制されると,上達しないのみならず,そのこと自体をやりたくなくなるのが性のようです。これを勉強に適用しますと,勉強も自分が本当に面白いと思うか,或いは本当に自分はこれをやらなければならないのだと思わない限り,勉強をやらない,そしてできるようにはならないということになります。物事効率や理想論だけを追い求めるのは適切ではないと思いますが,できるならこれらを重視するべきです。では,愛するご子息や生徒を勉強する方向に向けたいのはどうするかと考えれば,決して強制はせず,ただそれが面白いと思うようにするか,本当に必要であると思わせるかの2択のどちらかを達成する必要があります。そして,世の中には勉強というのはあまり面白くないと思われることが多いようですから,勉強は必要であると思わせようとしていらっしゃるのだと思います。であれば,本当に勉強が必要であるという理由を伝えるべきであるけれど,世の中で典型的に言われている理由というものは,どうも説得力に欠けるのではないかと思い,今回この文章を書いたのでありまして,私が先に述べたネガティヴな理由のみを以てして,そしてその理由をもっぱらの物としてこの文章を執筆しているわけではないと理解できれば,幸いです。

次に,人生にはいろんな生き方があり,既存のルートや典型的なルートだけを見るべきではないということです。多様な生き方があり,その幅が広がり続けている現代において(尤も,これは現代でなくてもそうあるべきだと私自身は思いますが),多数の生き方や典型的な生き方のみに目を向けるべきではなく,色々な生き方を探し,或いは模索し,自身の人生をよりよく生きることが重要であると思われます。例を挙げれば,巷でよく言われる「将来のために勉強しなさい」という台詞は,2.2の議論で指摘したように,一般的な就職,特に一般企業への就職に対しては一定程度の影響力を持ちますが,それ以外の部分においては,あまり影響がないように思われます。みんなが行く道は比較的安全です。先人がいますからどのようなルートがどのような結果になるという予見可能性があります。また,その道を採る人が多いですから,アドバイスや方法論等も多くあります。このような意味で,比較的典型的なルートというのは安心であり,親御さんや先生方からすれば,我が子や自分の生徒・児童を安全な上で,少しでも効用が高い人生を歩んでほしいと思われるでしょうし,私もその気持ちは察することができます。私も近しい人や親しい人には,できるだけ安全に,豊かな人を歩んで欲しいと思う気持ちはあります。しかし,それは私の自己満足に過ぎないという可能性があります。つまり,私がこの人を苦しめたくないのは,この人が苦しんだ状態を私が見たくないのであって,或いは私がこの人を亡くしたくないのは,私がこの人を失いたくないからであることに過ぎず,実際にはその人にとっては,敢えて冒険的なルートを採ることが幸せであったり,効用が高かったりするかもしれません。そのような「自己満足」を否定するつもりはありません。社会的存在たる人間であるからには,そのような感情を持つのはごく当たり前のことであるように思います。それでも,本人の方向性を尊重するのも,悪くはないのではないかと思います。例えば,勉強はしないけれど,スポーツは必死に頑張っているとか,学校の勉強はしないけれど,野菜については非常に勉強する等といったことが起こっているのであれば,その方向性を生かしてみるというのも1つの選択肢としてあるのではないかと思います。また,ポテンシャルの問題もあります。勉強には,遺伝と努力が要素として存在します。努力すればなんとでもなると思っていらっしゃる方には衝撃を与えるかもしれませんが,私の身の回りでもこれが通説ですし,一般的にはこのような見解の支持者が一定数いると思います。となれば,勉強を全員が得意になることは不可能です。では,勉強が苦手な人はどうするか。勉強が苦手な人には,他に得意なことが存在する可能性がありますから,得意なことを見つけることに注力して,何か得意なことを見つけたなら,そこを徹底的に攻めるというのも充分と道としてあり,私はその方が幸せで,効用が高くなるのではないかと思っています。勿論,これは私の浅慮にすぎないと思いますが,このような道を採ることも検討されてもよいのではないかと思うのです。

最後に,勉強を得意になった結果が幸せとは限らないということです。私は,一応国立大学に入学し,そのために勉強はそれなりにきちんとやりました。その結果多くのことを知ることができた他,自分の能力をいくらか引き出すことができたと思っています。しかし,それが幸せに繋がっているのかは,甚だ疑問です。少しでも普遍性を持たせるために申し上げておくと,私の周りでもこのような考えに至る人がいます。つまり,勉強せずに,適当なタイミングで勉強を終えて,難しいことは考えないようにしなければよかった方が幸せなのではないかという考えです。それはなぜかというと,それはいろいろあります。例えば,色々なことを知りすぎた結果,世の中がいかに脆いか,不確実であるかに気づき,精神的に不安定になったり,色々なことを知ったことによって本来スルーしてもよいようなところが許せなかったり,勉強によって色々なことができなかったりするということがあります(尤も,これは一例である他,必ずしもこうなるということでもありません)。確かに,前に述べた通り,勉強をすることによりメリットが出てくるのは事実です。そこに高学歴等といった称号を手に入れることができれば,尚更そうです。しかし,そのメリットとデメリットを天秤にかけた時に,それが必ずしもメリットの方に傾くとは限りません。これが事実であると思われますので,ご子息や生徒方に勉強させる,或いは勧めるのかというのはやや考えるべきであるとも思うのです。

3.2 私自身の勉強に対する考えの総括

 このように色々と論じてきましたが,私の考えをまとめておこうと思います。さしあたり,私の実体験をある程度述べておこうと思います。中学1,2年生の時の私は,勉強する意味が見出せませんでした。勉強というものは高校受験や大学受験には必要であるのはわかっていましたが,最終的には社会に出てからは,使うものではない,と思っていたのです。とすれば,そんなものに時間を費やすのではなく,実業高校に行き,高卒で働いたほうがいいと思っていましたし,そのつもりでした。ただ,勉強はそれなりに出来ましたから,それを生かした道もあるとは思っていました。そうした中で,「踊る大捜査線」にはまり,その中での室井慎次(役:柳葉敏郎)にはまり,国家公務員を目指そうと思ったのです。そのためには,地域で最も偏差値が高い高校に入学することが必要となり,勉強を始めました。結果,その学校に行けなかったけれど,そこで勉強の面白さ,普通科の勉強の面白さというものがわかりました。特に,それまで苦手だった数学や理科といった科目の面白さがわかり,結局文系に進んでいますが,相変わらず理系の話が大好きです。高校入学後は,第一志望の高校に行った人々を見返すということで,私の高校からは30年近く合格者が出ていない東京大学を志望しました。部活動と勉強,学校生活等を高校の頃,一生懸命やりました。最終的には,東京大学に入学することはできませんでしたが,勉強する楽しみ等は本当に分かったように思われます。

 こうして私が思うのは(あくまで私が勉強を大切だと思っていること,また2度も自分の志望校に行けなかったことが影響している可能性はありますが,というかおそらくそうだと思いますが),勉強は人格形成の上で必要であり,また新しいことを知ることが脳の活性化を促し,人生をより楽しむことができるということです。このような意味で,私はある程度の勉強が必要であるけれど,これは決して勉強を外的要因によって強制されることにはならないと考えるのです。こうした経緯から,私が1.本質的な理由のところで述べたような2つの理由が勉強をすべき理由になると考えているのです。

 とはいえ,私も最近になり勉強をしない方がよかったのではないかと思うこともあるのです。勉強により多くの知識を蓄積すると,通常人が考えなくてもいいことを考えるようになり,またその内容が人間やこの世界の存在理由や存在経緯になると,それは自分のちっぽけさや空虚さ等に苛まれることがあるのです。まあ,高学歴な人が全てそうであるとは思いませんし,そうではない人の方が多いように見受けられますが,このようなことが発生するのは,私が勉強したからです。尤も,私の勉強量が足りず,もっときちんとした頭脳,判断能力,知識を身につければこのようなことがなくなるのかもしれませんが。少なくとも,私程度の中途半端な勉強量では,知識を身に着けることや色々なことを考えることとそうしたことに苛まれることは両刃の剣であり,場合によっては,自分自身をより不幸にする可能性もあるのです。こうした流れから,2.2で述べた通り,勉強することによって必ずしも幸せになるとは限らないと思われます。

  このように考えれば,そもそも勉強をさせることが本人のためになるのかどうかも不明であると思います。そして,私は勉強させることには反対であり,勉強はしたい人がすべきであると思います。とすれば,親御さんや先生方は生徒に勉強をして欲しいって思うのであれば,勉強の楽しさか勉強が真に必要な理由を伝える必要があると思われます。そして,その際に決して強制してはいけないし,子供の方がそれを察知するような方法でやってはいけないと思われます。そして,最終的に子供の方が勉強はしないと決めるのであれば,それを尊重するしかないのかもしれないとも思うのです。

 とはいえ,これは私の意見に過ぎず,これを強要することは当然にしてできず,またこれを皆さんが賛成し,採用するということはないと思われます。

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